グッド・サマリタン・チャーチ大阪淡路チャペル

完全な律法

 

ヤコブ書1:22〜25


1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
1:23 みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。


聖書


聖書は身分も職業も時代も異なる約40人の人々により1600年間にわたって書かれた。しかし、そこには完全な調和と統一がおり、一つの矛盾もない。このことは彼らの背後には常にひとりの著者なる神がおられ、その神が彼らに霊感を与えて書かせられたことを意味している。


聖書の霊感


聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。 (2テモテ3:16-17)


聖書信仰の立場


「聖書は十全霊感による誤りなき神の言であり、信仰と生活との唯一無謬の基準であると信ずる」

日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)


言語十全霊感説


言語霊感
(げんごれいかん、バーバル・インスピレーション、Verbal Inspiration)とは、聖書の霊感が思想だけではなく、言葉に及んでいるとする聖書の霊感説である。聖書信仰では十全霊感とあわせて言語十全霊感と呼ばれる。

 

十全霊感
(じゅうぜんれいかん、PlenaryInspiration)とは、聖書の霊感が、救いや信仰のことがらだけではなく、科学や歴史の領域にも及んでいるとする聖書観。

(疑わしい霊感説)

・機械的霊感説(笛吹き説)
・思想霊感説
・部分霊感説
・人間のインスピレーション説

 

神のことばの象徴的表現



みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。(ヤコ1:23-25)


批評家


神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)



あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(Iペテ1:23)
道ばたに落ちた種、岩地に落ちた種、いばらに落ちた種、良い地に落ちた種(ルカ8:11)


洗盤と水


みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、(エペソ5:26)


ともしびと光


あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩39:105)



わたしのことばは火のようではないか…主の御告げ(エレ23:29)
私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレ20:9)


金槌


わたしのことばは…岩を砕く金槌のようではないか。(エレ23:29)
これは、絶えず働いて、ついには岩のように固い心を砕く、みことばの力を示す



…また御霊の与える剣である、神のみことばを受け取りなさい。(エペ6:17)
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く…(ヘブ4:12)

これは信者が「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊」と戦うための一つの攻撃用の武器である。


パン


…人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。(マタ4:4)


乳ミルク


生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。

(Iペテ2:2)(Iコリ3:1-2参照)



固い食物はおとなの物で・・・

(ヘブル5:12)



あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。(詩119:13)


完全な律法


 人が聖書のことばに触れる時、そのことばはよく磨かれた鏡のように正確に自分自身を映し出し、そこから逃れたくなります。誰しも自分自身を正確に見たくないのです。嘘、汚れ、欺瞞、情欲、貪欲・・・などなどに染まりに染まっている自分自身に気が付きます。そしてそこから必死に逃れようとするのです。そして落胆し絶望するのです。
 しかし神のことばには、別の一面があります。それは十字架を通して聖書を読み自分自身を見つめるという一面です。汚れに汚れた自分自身の罪のために十字架に付いて死んでくださった方がおられる。そしてその罪を十字架の上で裁いてくださった方がおられる。この方こそイエス・キリストなのです。
 この方を信じる時私たちに本当の希望が生まれてくるのです。すなわち聖書の御言葉は十字架を通して読んでいく必要があるのです。イエス・キリストの十字架を通して聖書を読んでいく時、それは蜜のしたたりよりも甘いものとなるのです。